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外来の第1章は、主人公・新井英彦が得体の知れぬ男・金海英夫と知り合い、韓国の囲碁界の裏側をかいま観る事から、自身の囲碁の棋力を向上させて行く展開。 現在世界一とも言われる韓国棋院のルーツ、そして囲碁を通して韓国人が抱く、日本囲碁界への怨念・・・それらが複雑に絡み合って、主人公・新井英彦が目覚める(真の棋士への道程) |
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【連続囲碁小説】 外来 第1章 裏打ち 11 英彦は金海英夫のあとに続いて車から降りた際、此の家の主の名を記した玄関脇の表札にチラリと眼を向けた。 尾崎 定次朗 これがこの家の主人の名前であった。 銀座の寿司屋で金海英夫に昨日掛かって来たという電話にも確か(尾崎)とか言う名前が出て来ていたから、金海と尾崎との関係は、かなり深い繋がりが有ると思って間違いなさそうだ、と言うのが表札を目に停めた英彦の読みで有る。 三人が女中に案内されて入った床の間付きの12畳の和室からは、庭先に大きな池が見渡たせた。灯篭なども幾つか見て取れるから、かなり数奇を凝らした庭の作りに仕上がっている事は確かである。 「もうすぐ家の主人もここへまいりますから・・」 女中が運んで来たお茶で英彦が口をしめらしていた処、金海が別の部屋から碁盤と碁石を持ちだして来て、 「英彦君、囲碁で≪この図が出来上がると、勝負を無効にする≫と言う場面はどんなものが有るのか知っているかね?」 と、質問を英彦に浴びせて来た。 「三刧・・・の場面が出来上がると、無勝負にするとはよく聞きますが・・」 「そう、三刧は本能寺の変の際も出来たと言う言い伝えが有り、不吉な図とも言われているが、その他にどんなものが有るのかな?」 「他には、長生の図等が其れに当たるはずです」 「長生の図か。・・・君は其の図を今ここで並べられるかね?」 確か金海英夫は自分で『囲碁の力は五段位』と言っていたから、今僕が言った(長生の図)のこと位は知っているのだろうと思いつつ、碁盤の上にサラリと石の位置関係を並べて見せた。 其れを横で見ていた大西友也が、 「この図が、長生と言われる石の配置図なのか。ふーん、確かにこれだと何度も取って取られて・・・を繰り返す事に為るから、無試合にせねばならないのですな。」 並べられた石の配置を見ながら、感心したように声を出した。 英彦は、父からこの図の事を教えられたのは、僅か8歳の時なのに、大西友也と言う此の男はこの図を知らなかったのだ。 金海英夫が遣っていた大久保の碁会所で、海千山千の曲者相手の客層を手玉に取っていたかなりの碁打ちなのだよと、喫茶店で大西の事は金海から聞いていたけれど、この長生の図を大西が知らなかった所をみれば、僕の父の前では此の男敵にも為れない程の腕前だったのかも知れないと、英彦は大西の値踏みをサッサと頭の中で済ませてしまった。 英彦の碁の師とも言える三宝寺の快智導師は、 「ワシは石の一着目を打ち下すのが恐い。碁の名人や棋聖とも為れば、その第一着目が何を意味している物か見通す程の実力を持っているからじゃ。石は迂闊に打てんし、口も迂闊に開けんぞ。何事にも真理を求め、自分を常に律して行きなさい」 と、常々教えてくれていた事を、再び思い出していた。 ≪父の事については、自分でこれから何とか出来るものであれば、どんな事にでも立ち向かって行こうと思う。その第一歩と為るのが、今僕の眼の前に居るこの大西友也と言う男に、対局で勝つ事なのかもしれない。そこから糸口が開けて行くのならば、絶対負けない事が肝要だ。どれほどの実力を秘めている相手なのかを知る為に、対局の初期段階でチョット誘いの手を振ってみようか?・・・≫ 新井英彦は、此の時既に16歳の少年とも思えぬ、大胆な勝負師魂を沸々と煮えたぎらせ始めていたのであった。 勝負師としての遺伝子を父・洋一から受け継ぎ、その遺伝子は、三宝寺の杉山快智導師によって磨き込まれ、新井英彦は、今まさに碁打ちの才能を開花し始めようとしていたのである。 「いゃー、待たせた様ですなーぁ」 雪見障子を開けて入って来た男は、年の頃80歳くらいの総白髪の大男で有った。 老人には似合わない野太い声の中に、過去どんな事でもやり遂げて来たぞと言う、自信が満ち溢れて居た。 泥大島に身を包んでいる尾崎の前で。金海英夫は少しばかり卑屈なしぐさを見せてはいたが、僅か16歳の新井英彦の方は、逆にキッと尾崎定次朗の顔を真正面に見据えられる純粋さが顔色に滲み出ていた。 |
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【連続囲碁小説】 外来 第1章 裏打ち 10 「昨日金海さんが言っていた、僕の父の手紙を読ませてもらえませんか」 英彦にとって父の消息をこの金海から知ると言う事は、いま一番の願望であった。 「おぅ、そうだったね。約束通り君の御父さんが、私宛に書いて寄こした手紙と言うのを見せてあげよう」 金海英夫は手に提げて来たVOUIS VUITTONのtaigaというバッグの口を開いて、中から航空郵便物を英彦の前へ渡して呉れた。 その封書は、表書に記してある金海英夫の住所と郵便番号の部分が、英彦の想像を裏切って墨で消して有った。 其の事を不審に思いつつ、英彦は封書の裏面の方を更にひっくり返して見てみると、なんと此方も差出人の父の名前は書いてあるのだが、当時父が住んでいたと思われる住所の部分については、表書同様墨で見事に消して有ったのだ。 消したと思われる墨の色は、まだ真新しいもので有ったから、多分、金海が英彦にこの部分を知られたくないと思い、急遽消してここへ持参したと考えて間違いなさそうだと英彦は推理してみた。 「何で墨で消して有るのですか?」 英彦の問いに、金海はチョット気まずそうな顔つきになり、 「いゃー、今は訳が有って見せたくなかった部分だもので・・・。それよりも、中に書いて有る事を読んでみなさい」 英彦が封書の中から取り出した手紙は三葉で有る。 ≪金さんへ まさか私がこうして韓国の地で碁を打つ事に為るとは、大久保に居た当時には想像も出来なかった事です。私も一介の碁打ちだから、碁を打ちながら其の日其の日を凌いで行く事は、別段苦でも無いのですが、置かれている環境が環境だけに、何時に為ったら日本の土を踏めるのか想像も出来ません。もしかしたら叶わないと言う事の方が大きいのかも? 等と、今の厳しい状況を思うと弱気に為る事も有ります。そこで、金さんに願い事が有り手紙を認める事に為りました。その願い事は、私が手塩にかけて育てて居た、息子の新井英彦の事です。まだまだ幼い処も有りますが、碁に対する才能は、人並み以上に光るモノを有しているので、貴方の力で誰かプロ棋士の内弟子にでもして頂けない物でしようか? それが叶う為らば、金さんの要望に応えてみる事も考えて居る次第です。出来るならば私の事は伏せたままで、英彦に貴方の力を貸してほしいと考えます。この件に関して、ヨロシクお願い致します。 金英夫氏へ 新井洋一 ≫ 英彦が読み終えた手紙の筆跡は、幼い時に見ていた父・洋一の文字に間違いなかった。 それにしても、父が何で韓国に居るのであろう? そして、何で日本に帰れそうも無いと言っているのだろうか? 更に、英彦が大きな疑問を感じたのは、父は金海英夫にこの手紙の事は息子に知らせないでくれと書いてあるのに、金海英夫はその願い書きを無視して、この手紙を僕に読ませている事実だ。きつと(裏の何か?)が有るからこそ、僕にこの手紙を読ませたに違いないと英彦は思った。 僕に父の手紙を読ませる事で、金海英夫は別の何かを得ようとして居るのかも知れないのだ。 英彦はこの一連の疑問点を単純に、金海英夫にぶつけてみるのは、此方の腹の中を読まれかねないと考えて、自分の心の中に今は伏せておく事の方が正しいと判断し、わざと手紙の内容と金海英夫の発言の矛盾には黙っていた。 其の時、喫茶店の表に緑色のジャガーが一台止まり、中から下りて来た運転手が、金海英夫に近ずいて来て、 「主人の命で、金海さま等お三方をお迎えにまいりました」 金海英夫は、この運転手が迎えに来る事を事前に知っており、どうやらここで待って居た事を英彦は悟った。 「英彦君、これから行く家で、ここに居る大西友也と碁を一番打ってもらいたいんだ。其の打つ様子を、横で尾崎さんがご覧になり、その結果を見て、全ての事を多分君に話して呉れると思うよ。」 「それは、僕の父の事も含めての話なのですか?」 「多分そうだと思う。」 三人を乗せたジャガーは、都電・早稲田駅の先、鶴巻町を抜けて神田川の淵に有る江戸川公園を見下ろす高台の方へとハンドルを切った。 車が止まった処は、多分、ホテル椿山荘の裏手当たりだと英彦は推測した。 かなりな旧家では有るが、由緒の有りそうな立派な和風建築の一軒家で有る。 ここに三人を待って居る尾崎とか言う人物が住んでいるのかもしれないと思いつつ、この家の玄関先の車寄せへと英彦は降り立ったのである。 |
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【連続囲碁小説】 外来 第1章 裏打ち 9 英彦は西武池袋線で池袋まで出て来ると、続いてJR山手線へと乗り換え、池袋の隣駅・大塚迄向かった。 この大塚駅から都電荒川線へと乗り換えて、終点駅の早稲田まで行こうと言う訳だった。 都電荒川線は、現在東京都の中に唯一残された都電で有った。 都電は東京オリンピックを契機としてその姿を一挙に消してしまう事に為る。 その理由は、都心の道路の交通量が増え、道路の中央部を占有する線路が車の走行の邪魔に為ると言う事が最大の理由であった。 しかし、この荒川線だけは走る路面がほとんど都心の道路を使わず運営出来ているという特殊な点に有った為、現在もしぶとく都電として生き延びているのだった。 大塚駅から乗り込んだ英彦は、面影橋の次が目的地の早稲田で有る事を確認し、下りる準備に取り掛かる。 金海英夫が今朝がたの電話で指定していた喫茶店は、終点早稲田駅を降りたすぐ近くに有った。 早稲田大学が直ぐ近くに有る関係上、店内には学生らしき姿があちらこちらのボックスシートにかなり見て取れ、いずれも楽しそうな会話で店内が弾んでいた。 南三陸町の小学校しか出ず、父を捜しに地元を飛び出した英彦は、直ぐに東京で補導されてしまい、その事で石神井学園へと引き取られたのだった。そして、そこから中学校へと進み、高校へは行かなかったから、喫茶店内で楽しそうに話している、学生達の大学生活がどんなものなのは、英彦に想像も出来なかった。 「ほら、あそこに八百屋が見えるだろう?その2階の角部屋は、この辺りをシマとする幸平一家の早稲田事務所が有るんだぜ」「ふーん、マジでヤバイね」等と、知ったふうな事を話している学生二人が英彦のすぐ近くに居た。 その学生の話に出ていた方向から、丁度金海英夫が一人の老人を伴ってこの喫茶店へと歩いてくるのが、喫茶店の窓越しに見て取れた。 「新井君待たせたね」 金海英夫は入って来るなり直ぐに英彦を見つけ、大西友也と言う老人を英彦に紹介した。 喫茶店で金海英夫が最初に話した事は、パチンコ屋を潰してしまった後に、自分の趣味であった囲碁を片手間仕事的に、コリアンタウンである大久保で始めて見たと言う話で有った。 最初はまともな碁会所にしようと金海自身思ったものの、場所が場所だけに、在日人特有の賭け碁が次第に盛んに為ってしまい、金海の碁会所は賭博場マガイの所という評判が流れ始め、その噂を聴き付けた真剣師達が、次第に集まり出したと言うのであった。 まぁ、素人経営の碁会所で有ったから、仲間内で打って居る賭け碁の額も、当時はそれほどの額では無かったようだと金海は説明してくれた。 「夕方5時から店を始めて、次の日の朝10時迄営業していたんだ。そんな時間帯の方が賭け碁を陰でする碁打ちが集まり易いので・・・其の店に当時店番兼お客の相手をこなす役として居たのが、この大西友也なんだよ。今よりはもっと精気に溢れて居たけれどな。・・・そして、碁の腕さえ強ければ金を稼げるとの噂を聴き付け、店にヒョッコリ現れたのが、君の御父さんと言う訳だ」 「父は何時頃貴方の店に来たんですか?」 「さーぁ、ハッキリと日時は覚えていないけれど、かなり前の事だよ」 「父が当時何処でどの様に暮らしていたか等、貴方に話した事は有りましたか?」 「いや、そう言う事は必要も無い事だったから、何等聞いた記憶も無いな」 金海英夫は、肝心な事に質問が及ぶと、話をはぐらかしてしまうのだった。裏で賭け碁をさしていたと言う後ろめたさが有る為だろうか? 続いて、金海英夫は、大久保のその碁会所が次第に賭け碁の場として名前が知れ渡り出したので、警察の手入れを恐れて、自分の手で店を閉めてしまった事も話して呉れた。 しかし、店は世間の眼の前から消した物の、以前とは異なって、スポンサーを付けたもっと大きな賭け碁の場を真剣師達に提供する事を思いついた。 そして、某マンションの一室内で、さらに大きな賭け碁を、密かに営業し始めたと英彦に語ってくれた。 そのマンション内の秘密の賭場の責任者に抜擢したのが、何と英彦の父であったと言う事も、金海はサラリと話の中で言ってのけた。 「君の御父さんは、それくらいこの大西友也よりも腕が上だったのだよ」 先ほどは父の事を余り知らないと言っておきながら、闇の賭け碁場の責任者に父を抜擢しているのだから、この金海英夫は父とはかなり深いかかわりを持って居るはずなのだと、英彦は思ったので、早速韓国から金海の所に届いたと言う手紙を見せてほしいと、話を切りだした。 |
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【連続囲碁小説】 外来 第1章 裏打ち 8 英彦は三宝寺池の廻りをグルリと散歩した後、池の岸に建っている厳島神社の賽銭箱に小銭を投げ込み、願い事を一つ二つとお祈りした。 池の縁に建つ此の厳島神社は、安芸の国・厳島神社の分霊がここに祭られて居る物で、練馬一帯の水の守護役を担っている神社で有る。 練馬・板橋を縦断したのち飛鳥山を経て隅田川へと流れ込む此の石神井川は、其の名前からして石神井池が源泉と思われがちだが、石神井池はこの三宝寺池の湧き水が下の石神井池へと流れ込んでいるだけのものである。 そして其の三宝寺池の大本の水源はと言うと、遠く小金井カントリークラブの片隅に湧き出たものが、途中伏流水と一旦変わるものの、再び三宝寺池へと湧き出て来ているものだ。 だから、石神井川の源泉は遠く小金井に有ると言う事実を東京に長く住んでいる人でも、ほとんど知らない不思議な名前の川なのだ。 いずれは棋士に為りたいと言う願い事を済ませた英彦は、その厳島神社脇の崖路を三宝寺の裏手の方へと昇って行った。 三宝寺の裏手に有る潜りを抜けて、囲碁の師である杉山快智導師宅の前へ来ると、寺男の善さんが庭先の掃除をしているのに出くわした。 「おはようございます。快智先生はもう朝のお勤め御済みに為ったでしようか?」 英彦の話し方はやたらと大人びている。16歳の青年が普段話す様な口調では無い事は、三宝寺の住職に色々と礼儀作法を習った結果から来ている。 「ああ、英さんおはよう。導師さまはチョット前に大泉のお知り合いの所へ用事が有って出掛けられたところです。なので、朝の指導碁は今日は叶いませんね」 善さんは、快智導師と英彦が普段朝の指導碁を庵の中で打って居る事をよく知っており、今朝は導師が不在の為指導碁が叶わぬ事を、英彦に伝えて呉れた。 「そうだったのですか、それは残念なこと。・・・僕は今日早稲田の方でチョットした人と碁を打つ事に為っていたので、先生にその心構えなど教えてもらえれば、心静かに良い碁が打てるのではないかと思って居ました。」 英彦は昨晩若鮎寮の自室のベッドの中で、日本棋院の帰り道で出会った金海英夫の事をジックリと考え直してみたのである。 明日早稲田で合うと言う人物との対局は、何故か普通の対局を組まれた様な気持ちには到底思えないものだった。 碁を打つ事自体には、何等恐れを抱くものではないけれど、心の片隅に何と言って説明すればよいのか解からない、一抹の不安を感じる事も、別の意味でまた確かだった。 其の一連の流れを三宝寺の住職である、杉山快智導師に話してみれば、何か良いアドバイスを貰えるかも知れないと、昨晩ベッドの中で思い至ったのである。 しかし、三宝寺に来てみれば、頼りとするその快智導師には生憎会えない結果で終わってしまった。 英彦は寺男の善さんにお礼を述べて、再び三宝寺の裏手から、石神井学園の若鮎寮へと戻って行った。 金海英夫と言う男が、以前上野のアメ横でパチンコ店を経営して居て、不正営業で警察の手入れを受けた事は、本人の口から聞いていたので、その事実をパソコンで検索を掛けてみれば、あるいは何か金海英夫の隠れた部分が解かるかも知れないと思うのだが、生憎学園の寮生にはパソコンの所有は贅沢と言う理由から認められていないので、検索を掛けようにもそれは叶わぬ事であった。 「もしもし、この番号金海さんの電話で宜しいでしようか ? 私は新井英彦と言う者ですが・・・」 英彦は、金海英夫から貰っていた名刺の携帯番号へと電話を入れて、本日待ち合わせする場所と時間の再確認を取った。 同室の孝等と共有で使っているロッカーの中から、自分のセーターを一枚取り出し、其れを重ね着すると英彦は学園の教官に出掛けて行く旨を告げ、石神井学園の門を表へと出た。 三宝寺の杉山快智導師からは、これから打つ碁に対する心構えを聞く機会もなかったけれど、どんな事に為っても自分に恥ずかしくない碁を打たねばならないと言う思いを固めて、石神井公園駅から西武・池袋線の電車に乗り込んだ。 |
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【連続囲碁小説】 外来 第1章 裏打ち 7 翌日、英彦は若鮎寮で管理栄養士のおばさんが作ってくれた朝食をとると、学園を出て3分ほど先の三宝寺池へと散歩に出かけた。 池の廻りを散歩した後寺に立ち寄って、この寺の住職から指導碁を一番打ってもらうのが、ここ2年ばかり朝の日課と為っているからである。 三宝寺と言うのは、鎌倉時代以前にここ石神井川流域を開発した領主として関東一円に大きな勢力を築いた豊島一族の居城・石神井城が有った地に建立された寺である。 豊島一族は足利一族と深い繋がりが有った事から、足利氏と対立する関東管領・上杉一族の太田道灌に、応安元年(1368)江古田が原で戦いを仕掛けられ敗れてしまう。 豊島氏の分家とも言える、練馬氏、板橋氏、平塚氏等の家名が現在の東京に区名や地名として残っているのを考えてみると、豊島一族の勢力が如何に巨大で有ったかが伺える。 豊島氏は太田道灌に其の後もさらに攻められ、神奈川の丸子城から小机城へと敗走に敗走を重ね、ついには歴史から消え去ってしまう事に為るのだが、ここ石神井の地では、今も豊島氏の昔の栄華の痕跡が数多く残っているのだ。 英彦が毎朝散歩に遣って来るこの三宝寺池は、東京に残された数少ない自然が手つかずの儘で現存している場所で有り、この池の廻りを散策していると、都会の煩わしさがきれいサッパリと洗い流される様な気持ちに到る。 学園生活を始めて暫く経過した頃に、この三宝寺池を散歩している女優・壇ふみさんに英彦は出くわした。 それも一度や二度では無く、この池の散歩で度々顔を観る事から、自然に会釈を交わす仲と為り、ある日ついに壇ふみさんと会話を交わす事と為ったのである。 そのきっかけは、犬の事からであった。 其の日は、壇ふみさんの横に、ドイツのシェパード犬の紐を引きながら並んで歩いている男の人が居た。 ふみさんのお兄さんの檀太郎さんと言う有名なプロデューサーで有る事を、見かけた犬の話の中で知り得た。 このシェパード犬は警察犬としてかなり活躍しているのだと言う。 地元、石神井警察からは何か事件が有る度に、直ぐに出動要請が来ると言う話を聴き、英彦は自身が知っている警察犬の事を色々と話して見せた。 英彦は南三陸町の大津波の事故処理で、警察官が引き連れて来ていた警察犬を、詳しく知る事と為ったから、あの時の津波事故にもこのシェパードが出動したのかどうか、興味が有り、話が弾んだ。 其の後の散歩でも、度々太郎氏がシェパードを引き連れて三宝寺池の廻りを歩いていたのを見かけたから、英彦は自分よりも三回りも年上と思われる壇太郎氏に親近感を抱き、太郎氏もまた英彦を息子の様に可愛がってくれた。 「石神井池のお蕎麦屋さんで、蕎麦でも食べるかい?」と、ある日太郎氏が英彦に声を掛けて呉れて、蕎麦を頂いた事から、壇さんの御宅が直ぐ此の先で有る事を教えてもらい、ついでにシェパードの犬小屋迄観に行く事と為った。 太郎さんとふみさんの御宅は、三宝寺池の先に有る、石神井池のボート乗り場前の蕎麦屋脇を入って行った、チョット風変わりな御屋敷だった。 作家であった父親の、故・壇一雄氏が生前に建てた家を、ふみさんの妹さんと三人で引き継がれたものと英彦は聞いた。 その御屋敷に、故・壇一雄氏が残して行った五寸五分の立派な榧の碁盤が一面在る事を知り、生前の一雄氏は大層囲碁が好きであったと言う事を知ったのだが、其の子供達三人はいずれも囲碁をまるで知らないと言う。 只、生前の父は囲碁相手として、三宝寺のご住職と何度も碁を打ち交わす仲でしたよと教えてもらい、壇ふみさんに紹介されて、英彦が三宝寺の住職を知る事と為ったのだ。 三宝寺の住職は、世間に名こそ知られていなかったが、英彦が平手では太刀打ち出来ぬ程の打ち手で有った。 初めて打ち交わした時は5子と言われて、少しムッとした英彦ではあるが、打ち終えてみると其れはそれで正しい事の意味が直ぐに納得出来る実力を、三宝寺の住職は持って居たのである。 其の後一年以上掛って、漸く3子迄縮めて来たものの、今でも英彦が気を抜けば、直ぐ様4子には戻されてしまうのであるから、アマ七段を凌ぐ実力の英彦にとって、正に囲碁の師とも言える人物に英彦は巡り合えたと言う訳で有った。 |
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【連続囲碁小説】 外来 第1章 裏打ち 6 英彦は、銀座から地下鉄に乗り池袋へと出て来た。 池袋の西武デパートの地下街は、夕方も遅い時間に為ると、お弁当やらお惣菜のコーナーが、当日中に売りさばいてしまおうとする戦略で、値段を半値近くにまでおとして特売合戦を繰り広げているのだが、今日はそこには立ち寄らずに、パーラーTAKANOのケーキ売り場に顔を出した。 ここには吉田泰子と言う、学園出身者の先輩が勤めているのだ。 「あら、珍しいわね、英彦君」 「うん。孝にたまには美味しいケーキでも食べさせて遣ろうと思ってね。」 「そうなんだ。孝君元気なの?」 「あいつは気持ちが優し過ぎて、僕が近くに居ない時なんかは、弘や真治達から相変わらず虐められているんだ。」 そんな他愛の無い会話を2・3分交わした後、フルーツを盛り合わせたケーキを持ち帰り用の箱に入れて貰った。 「たまには顔を見せてね」 吉田泰子の声を背後に聞きながら、英彦は西武池袋線のホームへと向かった。 英彦は南三陸町で小学校を卒業すると、津波騒動のどさくさに乗じて中学へも進まず、父を探し出す為に一人東京へと飛び出して来たのだ。 しかし、そこは年端もいかない子供の事であったから、たちまち生活に行きずまり、路上で補導員に保護されてしまった。 身寄りのない英彦の事は、色々と役所の方で親身に相談に乗ってくれ、結局英彦は練馬区石神井台に在る児童養護施設《都立・石神井学園》へと入所する事と為った。 英彦は補導員に発見されていなければ、あるいは都会の毒牙に遣られていたかもしれないホンの小さな少年で有ったのだ。 入所して西も東も解からぬ英彦に、最初に優しく接してくれたのが、当時在所中の吉田泰子だった。 吉田泰子は、あと残りわずかで18歳に為ると言う時期だった事も有り、入所して来たばかりの英彦とは、学園生活を共にする期間が本当に僅かな事だったのだが、生まれたばかりのヒヨ子が初めて目にした者を親と錯覚して懐くのと同様、英彦は泰子にとても親近感を感じていたから、泰子もそんな英彦の事をことさらの様に可愛がってくれた。 石神井学園を泰子が去っていく其の日に、誰も居ない処で英彦は園歌をそっと泰子の前で歌って見せた。 涙を流しつつ歌った其の事は、今でも懐かしく思い出す。 ♪♪ 春は秩父の峰ひかり、秋ははるかに富士を見る、古城のあとの森蒼く・・・♪♪ 泰子とのそんな懐かしい思い出に浸っていたので、池袋から乗った電車は、石神井公園駅にアッと言う間に滑り込んだ。 駅を降りて、駅前の富士街道を10分ばかり歩いて行くと、(石神井学園前)というバス停にたどり着く。 英彦がこの学園に来てから既に3年半の歳月が流れていた。 何処の児童養護施設もそうなのだが、18歳に為れば入所している全ての子供は、施設を嫌でも巣立って行かなくてはならない厳しい決まりごとが有る。 今、英彦は16歳の春を迎えたばかりで有ったから、ここでの生活も残り2年を切った計算である。 英彦の最大の課題は、行方不明の父との再会、其れに18歳からの自立と言う二点である。 石神井学園の入口に立つ乙女の像が、薄明かりの中にほの白く浮かんでいるのを横目に見ながら、英彦は学園の入り口ドアを押しあけて、学園指導員室前に出ている外出中の自分の赤札をひっくり返して、帰舎済の白札へと手直しをした。 ここでは20名近くの孤児たちが生活をしているのだったが、創立者・渋沢栄一の時代の、問題多発の大部屋収容とは違い、今は孤児たちの性格をそれぞれ考慮して、2名から3名で暮らさせる、自主性を重んじた小部屋生活へと、生活スタイルは切り替わっているのである。 英彦と生活を共にする孝と言う少年は、今小学4年生のチビッ子である。そしてもう一人、晃と言う中学1年のパソコンオタクが英彦とベッドを並べており、都合三名で英彦は学園生活を送っていた。 英彦の事を彼ら二人は「お兄ちゃん」「兄貴」と呼んで、英彦にはとても懐いていた。彼らは言わば英彦の弟分であり、この二人にパーラーTAKANOの美味しいケーキを食べさせて遣ろうと言う思いから、英彦は金海英夫に貰ったタクシー代を使わず、池袋に立ち寄りケーキ代に替えて学園まで戻って来たと言う訳なのだ。 明日、早稲田で落ち合うであろう人物と、打ち交わす対局の事は、ベッドにもぐってからゆっくりと考えれば良い事だろう位の軽い考えしか、英彦の頭には無かった。 |
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【連続囲碁小説】 外来 第1章 裏打ち 5 「僕は消息の途絶えた父を探しに東京へ出て来ました。色々の碁会所に顔を出しては、父の写真を見せて(此の人を知りませんか?)と尋ね歩いているうちに、3年ほど前に在る人から(韓国のドラゴンホテルの近辺で見かけた)と言う人に出会いました。其の後も別の人の口から(金村在来市場の近所に居るのではないか?)と教えてくれた人も居たのです。僕としては、何故父が韓国に居るのか、心当たりは有りませんが、今までに、父らしい人物を見かけたと言う人は、全部で5人居て、そのいずれの内容も、父を見かけたと言う場所が、全て韓国棋院の近くだと言う事なので、囲碁に絡んでいた父に間違いのない事と思われたのです。多分僕が見せた写真の父は韓国に今いると考えて、間違いないと思えるのです」 「ふーむ。君はお父さんの事を本当に心配しているのだな。 君が調べ上げた通り、確かにお父さんは今韓国に居るんだよ。そんな君の親を思う気持ちに、容易く応えてあげたいのだが、その答えを今は理由が有って、私がここで勝手に言えない立場だと言う事だけは解かってほしい」 「何か父の事で、条件とかが有ると言う事なんですか?」 「条件? 否、そんな物は無いよ。君のお父さんの事については、或る人物の判断さえ下りれば、直ぐにでも君がお父さんに会う事は可能のはずだ」 「或る人物? 一体誰なんですか?」 「ここではチョット言いにくい事なので、其の事は今は忘れてほしい。ただ、半年前に君の御父さんから、息子の事は何かと力に為って遣ってほしいと言う手紙を私は貰っているんだ。その手紙、君が読みたければ、明日にでも見せてあげてもかまわない。」 「ハイ、お願いします」 「実は私も囲碁をたしなむ人間でね、まぁ、アマ五段程度の実力かな・・・だから、日本棋院で今日打って居た君の力がどれくらいかと言う事の判断は少しは出来るつもりだ」 英彦は未だ16歳の少年ではあるが、色々顔を出す碁会所では七段を上回る実力を常に示していたから、この金海と言う男が、アマ五段と言った処で少しも驚きはしなかった。 何年にもわたって探し求めていた父の居場所が、明日に為れば少しは解かるかもしれない父の自筆の手紙を、此の男が見せても良いと言うので、心の荷駄が少し軽くなった様な気がして来た。 漸くの事に、眼の前の寿司に箸を付けていると・・・ 「明日、午前10時に都電荒川線の最終駅・早稲田の停留場迄来てくれるかな? 私がそこへ出向くので、近くの喫茶店で、手紙を読んでみてはどうだろう」 「手紙を読むのに、何か早稲田で無くてはならない理由が有るのでしようか?」 「実は、私からの願い事と言うのはそこなんだよ。早稲田の待ち合わせ場所に、私が有る人物を連れて行くので、その人物と君が、碁を某所で一番手合わせしてほしいのだ。 その場では、君の打ち振りを是非とも見てみたいと言う人が待って居るから、私が連れて行った相手と、君が碁を一番打ってほしいと言うのが、私が君に頼みたい事柄なのだ。」 「其の碁と言うのは、何か物の遣り取りとか、金銭の遣り取りを裏でする賭けの対象とかに為っているのですか?」 「厭々、そんな事は断じてない。只、君の実力がどれほどのものかを判断する材料としての見物なのだ。・・・余り変に勘ぐらないで、此の事は私を信じてほしい」 「解かりました。碁を打つ事はどんな人であろうとも、別段嫌がるものではないから、精一杯打ってみます」 金海英夫が色々と廻りくどい言い方をしつつ、結局は明日僕に碁をどこかの誰かと打たせる為に仕組んだ今日の出来事だったのだと勘づいた英彦で有った。 気分を壊さないで欲しいと言いながら、金海英夫は英彦になにがしかの小遣いと、帰りのタクシー代、其れに此の店の寿司折を持たせて、闇の深まった銀座の街中へと消えて行った。 英彦はタクシー代を貰った物の、タクシーへは乗らずに、地下鉄に乗り込んだ。池袋を経由して、石神井公園駅迄帰るつもりである。 英彦の頭の中には、父の事がこれから先、何となく良い方向へ開け始めて行くのではないかと言う、前向きなイメージで一杯に為っていたのだが、まさか明日の対局が、これから先英彦のターニングポイントに為るのだとは、夢にも思い浮かべる事が出来なかった。 |
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【連続囲碁小説】 外来 第1章 裏打ち 4 「貴方の事は今の説明で大体解かりました。僕としては何よりも、今一番に知りたい事と言えば、勿論僕の父の事です。僕の父が行方不明になってから既に8年の歳月が流れており、今父がどこかで生きて居て、僕の事を貴方に頼んだのだとすれば、それは一体どんな事柄なのですか? どうすれば僕が父に会えるのか、其の事を貴方の口から教えて頂け無いものでしようか」 「子供が離れてしまった父の事を慕う気持ちはとても良く解かるよ。・・・只、今ここで君のお父さんの事を全て話してしまう訳にはいかない事情と言う物が横たわっている事だけは、承知しておいて欲しいのだよ。其れに君が今直ぐに会いたいと言った処で、少し無理な話ではある」 「其れはつまり・・・父は日本では無く韓国にいると言う事ですか?」 「ウン、そう言う事も含めての事ですね」 金海英夫が、父の現在の様子を知っているにしても、僕と父が8年前にどの様にして、離れ離れに為ってしまったのかを、少し此の男に説明しておかねばならないと思い、英彦は寿司を食べる箸を置いて話し始めた。 英彦の話は、話し終えるまでに小一時間も掛ったので、其れを要約してみると、次のように為るのだった。 英彦の母・美幸の話によると、父・孝次は子供の頃から左手に麻痺を伴う障害が有った為に、母が知っている限りでは、一度として世間一般の人の様な職を持たない人で有ったと言う。その代わり、子供の頃から独学で覚えたと言う囲碁に、異常な情熱を注ぎ、宮城県南三陸町は言うに及ばず、広く仙台辺りまで、囲碁の猛者として父の名前は知れ渡っていたと言うのだった。 其の父に英彦は四歳の頃より囲碁の手解きを受けて、年端も行かない子供では有ったのだが、父同様メキメキと強く為って行った。 父と母の間には、英彦一人しか子供は無く、父母共に英彦を溺愛していたのだが、不運な事に英彦7歳の時に母が国道221号線でトラックにはねられると言う事故の為、母は片足切断と言う事態に陥り、車椅子使用の生活保護を申請する羽目と為ってしまった。 父は幾ら囲碁の名前が近辺に広がって居ても、それだけでは生活の糧は得られず、一家の生活は途端に苦しいものと為ってしまった。 母・美幸の推測なのだが、父は何としてでも英彦を囲碁の棋士に育て上げたいと言う希望が有ったらしく、少しばかりの金を携えて、東京へと知人を頼って南三陸町を離れたと言うのである。其れが英彦8歳の頃だ。 そして、暫くは東京から母の許へ金銭が度々送られてきていたと言うのであるが、一年も経たないうちに、父からの音信はパタリと途絶えてしまった。 それ以降は、母・美幸が生活保護費を頼りに英彦を育てていたのである。父の影響が有った為か、英彦は小学生にして南三陸町一番の碁打ちに為っていた。 ・・・処が、英彦11歳の時に、あの忌まわしい大地震と共に、大きな津波が南三陸の志津川湾にも押し寄せて来て、体の不自由で有った母はあっと言う間に、津波の魔の手に呑み込まれてしまった。 英彦は此の時、小学校の屋外教育で荒砥崎迄子供達20人ばかりと出掛けていたのだったが、幸いなことに引卒して来ていた教師の指示の許、全慶寺の先の平貝地区の高台迄一目散に逃げのびて、命は助かったのだ。 母の遺体が自衛隊の隊員に依って発見されたのは、津波の被害が去った後4日後の事で有った。 ・・・これ以降、英彦は天涯孤独の少年となり、1年ばかりは地元南三陸町で色々な人に助けられ生活はしていたのだが、中途半端な卒業式が地元の小学校で有ったのを最後に、英彦はその姿をプツリと南三陸町から消し、父の消息が知れるやも・・との思いで、東京へと出て来てしまったのである。 英彦のこんな話をほぼ聞き終えた金海英夫は、 「そうか、そんな訳が有って、君は今、練馬の上石神井に居ると言う訳なんだ?」 《アッ!》 と、英彦は声に為らない声を呟いた。 この金海と言う男、僕の何から何までを既に調べ上げている。どうやらこの男の話は簡単なものではなさそうだと、腹を据える覚悟を英彦は附けざるを無かった。 「処で、君はなんでお父さんが、今韓国に居るのではないか? との、心当たりを持っているのだね?」 |
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【連続囲碁小説】 外来 第1章 裏打ち 3 英彦は4歳の頃から父に囲碁を習い始めた習性で、物事を多方面から掘り下げてみると言う癖が自然と身についていた。 ・・・ 先ほど貰った名刺には《碁楽山人 金海英夫》とだけ記して有る。携帯電話の番号こそ載せてはいる物の、本人が住んでいる住所や勤め先の様な物は、名刺に一切記載されてはいない。此の事で何か他人に知らせたくない訳でも存在するのだろうか? ・・・ 金海という苗字、多分、否、これは90%以上の確率で、コリア系の出自を持つ人物だと言えるぞ。だとすれば、金海=金=キム と言う事だろうし、名前の方の英夫=ヨンブと言う読み方も出来るじゃないか!チョット見日本名らしい名乗りをしているが、これは間違いなく在日の人だ。 そんな推理が一瞬のうちに英彦の頭の中で駆け巡っていた処へ、此の店の支配人と思われる人物が二人のいる奥座敷へ遣って来て、 「金海様、・・・尾崎様の代理人と言う方から只今連絡が入りまして、主人は急用が出来たので京辰の方へ顔を出せないから、早稲田の方へ御足労頂けないものかどうか、金海様に伺ってほしい。・・・とのお託なのですが、如何致しましようか?」 「そうですか。その件は了解しましたので、1時間内に早稲田の方へ伺わせて頂きます。・・・と、伝えて下さい。有難う」 金海英夫が店の支配人と個人的な連絡を交わしているうちに、中居さんが寿司と飲み物を二人の前に運んで来たので、漸くの事に食事が始まった。 「まぁ、楽な気分になって寿司でも食べて下さい。そして今君が、頭の中に浮かべている疑問点について私に聞きたい事が有ればお答えして行こうと思っていますし、私が君に頼みたいと思っている事に、君なりの返事をもらえれば嬉しいのですが・・・」 金海英夫が話の糸口を作ってくれた事で、英彦は今まで抱き続けていた、この不思議な展開について質問を始めた。 「日本棋院のあの坂道で、貴方から偶然に声を掛けられたのかと今まで思っていましたが、実はそうではない様な気がしてなりません。貴方は僕の父の名前も知っていたし、父から君の事は頼まれても居るのだと言っていた事を考えてみると、今日のこの場面は多分セットされていたのではないかと言う気持ちが強いのですが?」 「ふーむ、中々読みが深いですなーぁ。」 「ヤッパリ!」 「これから先の話を進めて行く上で、まず、私の身元を少し教えておきましょう。多分、君が想像している通り、私は在日の二世です。以前は上野のアメ横で其れなりのパチンコ店を経営していたんですが、同業者からの密告に依り警察の手入れを受けて営業権を取り消されてしまいました。台の裏にいわゆる裏ロムと言う奴を取り付けていたパチンコ台を店内に数台セットしていた為にね。其の事で店は潰れるは、パチンコ台へ投資した莫大な費用は借金に変わるはで、生活は一変しましたよ。それまで私の身の回りに私を頼って生活していた同胞の数は多かったので、其れを支え続ける為にも、色々と無茶な事にも手を染めて来ましたが、右から左へと言う旨い話は無い訳で、結局は早稲田の金主の許へと流れついたと言う訳です。」 ・・・うん? 今、早稲田の金主と言う話が出たけれど、先ほどの、尾崎とか言う人物のことなのか? 英彦の頭の中に、またもや新たな疑問が湧きおこって来た。 銀座京辰の寿司は美味しかったのだけれど、今は話の流れが速すぎて、寿司に箸を付けるゆとりも英彦には無かった。 ・・・僕の父のこと、そして何よりもこの男が、これから僕に頼みたいと言う事は一体全体どんなシナリオで絡み合っているのだろうか? これらすべての事は絶対聞き逃してはならない事なのだと、英彦は改めて思うので有った。 |
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【連続囲碁小説】 外来 第1章 裏打ち 2 英彦にとって眼の前に居る此の男は、まるで見ず知らずの人物なのである。 いきなりお寿司をご馳走してあげると言われても、奢ってもらう理由など英彦には何一つとして存在しないのだ。 普段から物事のケジメをハッキリと言える性格の英彦は、相手のメンツを傷つけない様に、物腰柔らかく辞退の弁を述べた。 しかし、此の男の口から父の名前が出た瞬間に、英彦の辞退の言葉は、囲碁で言う処の《打って返し》の技に、見事に打ち負かされてしまった。 「貴方は、僕の父をご存知なのですか?」 「知っているどころか、君の事は頼まれても居るんだよ」 「一体何を父から頼まれていると言うのですか?」 一瞬の間を置いて後、 「だから、そんな事も含めて色々な事柄を、君と話してみたいと思っているのだよ。・・・こんな処で立ち話するほど簡単な内容でも無いから、私に任せて少し付き合ってもらえんかね?」 結局、この金海英夫と言う男が呼びとめたタクシーに乗って、銀座の寿司屋・京辰と言う店へと足を踏み入れる事と為った。 英彦はよくある大衆向きの回転ずし店には幾度も食べに入ってはいるのだが、この様な立派なカウンターに座り、眼の前で寿司職人が好みのネタを直接一貫ずつ握ってくれると言う、いわゆる高級な寿司屋の暖簾を潜った事は過去一度も無かった。ましてや、銀座と言う土地柄で商売をしている寿司屋で有るから、どれほどの値段を取られるのかは想像すら出来ない事だ。 何から何まで英彦にとっては初めての事ではあるが、まぁ此の男がご馳走してくれると言うので有るから、心配する事も無かろうと思う。 名刺の肩書に《碁楽山人》とのみ記して在るだけの此の男、一体何者なのか?と言う事のみが、今の英彦の頭の中を占領していた。 「これはこれは金海さま・・・」 店の暖簾を潜ったと同時に、此の店の店長らしき人が飛んで来た処を観ると、かなりの常連客らしい。 否、それよりも店の奥まった静かな個室へと、中居さんが無言の内に案内する処を観ると、其れ以上の客なのか? 和服姿の中居が、座敷の座布団を二人の為に揃えた後で、引き際に「さしあたってのお飲み物は如何致しましようか」と言う問いに、「私は何時もの冷酒で良いのだけれど、此の子は未だ未成年だから、お茶にして頂けるかな」と、英彦には何も聞かずに返事を返した。 ≪うん? 此の男なんで僕が未成年と言う事まで、承知しているのか?≫ 坂の途中で言った父の事と言い、中居に言った今の返事と言い、この金海英夫は、何処まで僕の事を把握しているのだろうかと言う、一種の恐怖感が先ほどよりも一層強く英彦を包み始めていた。 |
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